匙(さじ)を投げる

名人と謡われ、何年経っても何度聞いても、感動と心をくすぐる笑いを私たちに提供してくれる五代目古今亭志ん生は、こんなことを言っていました。

「んーん、毎日のように講座に上がるんだが、本当に満足のいく噺ができたなあって思うのは年2,3度くらいかなあ。」

ピョンチャンオリンピック2018のフィギュアスケートの演技を見ていて、ふと、こんな話を思い出しました。

落語とフィギュアスケート、話芸とスポーツ、一見何の関係もないように見えますが、私にはどちらにも深い共通点があるように思えたからです。

片方は口と上半身の動きによって芸を表現し、片方は全身を使って技を窮めるものですが、どちらも人に感動を与えることで成り立つ芸術に変わりはありません。
そしてその根底には演者の心や思いがあふれています。

日本には「職人芸」という言葉がありますが、まさにこれらの芸術はある意味の職人芸(the spirit of a true workman ‘s art)によって成立するもののように思いました。

上に挙げた志ん生師匠のような芸術を紡ぎだす本人たちのそんな話を聞くと、
私たちは芸術家でも職人でもありませんが、うなずける点がありました。

わたしたちはり灸師が行う治療行為は人の心を揺さぶり感動を与え時には希望と夢を人々に与えるといった仕事ではありません。
あくまでもはり灸治療を通じて患者さんが、来られた時より少しでも具合がよい状態で帰ってもらえればなあということが目的です。

もちろん結果としておいでいただいた患者さんが感動を受け、明日に夢や希望をつなぐこともありますが、それはあくまでも結果論です。

わたしたちが行う脈診流経絡治療で年間1万人前後の患者さんを扱っている先生もおられますが経絡治療家と呼ばれる先生達の思いはいつもひとつです。

わたしたちは常にその患者さんに適合したベストの治療を提供したいと日夜努力を続けているのです。

でも、患者さんにはもちろん、自分たち治療家にも満足のいく治療ができた日がどれくらいあるかというと志ん生師匠の話はうなずけるのです。
なぜなら私たちの治療は、病名とその程度に応じ適切な薬物などを調合する現代医療とは異なり、患者さんが全身で表現する実像を把握し、それに最も適した方法で治療を行うからです。

患者さんは一人一人その体質も異なりますし表す症状も多岐にわたることが多く、なかなか治療も一筋縄ではいきません。
こうした患者さんに私たちは持っているテクニックとスキルのすべてを提供することで治癒に導くのが仕事です。

こんな事情もあって患者さんには100%の満足をいただけるよう最大限の努力はしますが、自分たちの満足度が80%、90%ということはしばしばあるものです。
そういう意味でも私たちの仕事、とてもさじ加減が難しい商売でもあります。
でも、さじは投げないようにしています。

「匙を投げる」
辞書にはこんな記述があります。

「《薬を調合するさじを投げ出す意から》医者が、これ以上治療法がないとして病人を見放す。また、救済や解決の見込みがないとして、手を引くこと。」(国語辞典「大辞泉」小学館)

これを見ると大昔の私にはこんな時があった気がします。
自分の技量が及ばないような患者さんが見えた時、あるいは、考え違いや技術不足で治療の途中から失敗に気づいたとき。
治療を投げ出すことはありませんでしたが力を十分発揮しないまま患者さんをお帰ししたようなこともあったような気がします。
結果、患者さんは思うような治療効果が得られないということも。

幸いそのような自分の弱点に気づいてからは患者さんにご迷惑をかけることは少なくなりました。
仮に治療効果が現れる基準が10点満点の7点ぐらいとすると、8店から9点の技量を以て患者さんをお帰しすることができるようになったのです。

翻ってスポーツ選手のことを考えてみましょう。
私はこう思うんです。
スポーツ選手は若いのに偉いなあと。
今日の自分ははっきりだめだなあという自覚があっても決して今やっていることをあきらめたり途中で投げ出したりしないからです。

例えばフィギュアスケート。
ジャンプが回転不足だった、手をついた、転倒した・・・・。
それでも決して選手は途中で演技を投げ出したりあきらめたりしません。

それは「どんなことがあっても決して途中で投げ出してはいけない」というコーチの強い指導があるからでしょうか。
それとも自分の技術に絶対の自信と信頼を持っているからでしょうか。
あるいはここで投げ出さないことが未来へつながるという信念というか計算があるのか。
「ここで投げ出してはいけない」というアスリートのプライドがあるのか。

いずれにしても大したものだと感心ばかりさせられます。

そして、その強い精神力、その積み重ねがピョンチャンオリンピック2018の羽生君の金メダルにつながっているのかと思うとただただ胸がいっぱいになります。

再び三度私は思うのです。
日々の治療だけではなく生き方そのものでも決して現状を投げ出さないような強い精神力を持たねば、と。
仮に自分に負けそうになっても途中で投げ出したりすることなく、あるところ以下には落ちないように最大限の努力をすべきだと。

そんな折、ふと身近な若者を見ていると「リセットすればまたやり直せる」と思い込んでいる青少年が多いのはとても残念なことだと思います。
そんなに簡単に「匙を投げ」手はいけないのですよ、皆さん。